10/10 社会構造チーム第2回発表

後期2回目のゼミは、夏休みの課題であった『孤独なボウリング』の総括と社会構想チームの2回目の発表でした。メインは社会構想チームの発表で、今回のテーマは「承認の形を考える」でした。まず、共通で広井先生の『持続可能な福祉社会ー「もうひとつの日本」の構想』の第7章を読み、日本社会における人間関係の特質について理解を深めました。
その後、個人の発表に移りました。以下はテーマの一覧です。

①接触と承認・習慣と空間
②「1億総主役」社会の実現に向けて
③親和的承認の不足とジェンダー
④インターネットにおける承認について

<まとめと感想>
各テーマとも「承認」が共通の大きなテーマとなっていました。また、第1回目の発表に比べるとより範囲を絞った具体的な話であるとの印象も受けました。自分自身、大学生になり親元を離れ、身内が周囲から減っていくにつれ、「褒められること」というのは減っているなと思うことがありました。承認が個人に与える影響は、一人暮らしである自分にとって実感として感じるところがあります。単身世帯が世帯数の多くを占める中、今後の社会の在り方を考えていくうえで、このような視点はますます重要になっていくことでしょう。

次回は、『地方消滅』を読みグループディスカッションを行います。

(記:上野代)




10/1後期ゼミ開始!

後期一回目の今回は、進路についてのガイダンスを行いました。
代々の先輩の就職活動体験談や就職先、広井先生の職業観などが示されました。

印象に残ったのは、卒論と就活というのは自分の軸を示すという意味で重なりあうものであり、就活での様々な大人との交流は貴重であるという話でした。

徐々に大学生活も終わりが見えてきましたが、大学でこれを学んだと胸を張れるよう努力したいと思います。(今井)

6/18の発表です

 

 6/18日人間科学チームの発表です。おそくなりまして申し訳ございませんでした。
 さて、単刀直入に本題に入りたいと思います。
 人間科学チームは社会の在り方、または社会のための政策を考える前に、人はどういうものなのかと各自にのべました。コンパクトにいうと人は客観的な存在ではありません。人間は心を有するため、様々な欲望をもつ、しかし
、利益だけでは動きません。われわれは幸せを追求しながら、他人の幸福をねがっています。だから、客観的かつ唯一的な科学的視点では、正しい人間像を捉えません。われわれは莫大なデータを通じて人間における普遍的価値を探す同時に、多様な価値観を認めるべきだと思います。
 1幸福について
 人間は幸福を追求するべきですか。
   肯定派:功利主義。
   否定は:結果ではなく、過程こそ大切。
 幸福は欲求が満たされた状態ですか。
   マズロー欲求段階説では人間の欲求が五段に分けます。物質的な欲求から精神的な欲求へかわり過程は、具体的なものから抽象的な概念への追求の道です。しかし、どの段階に達したら、幸福を実現できるかというと、答えられません。
   ①睡眠、食べる。
   ②自分のことを守ること。平和な世の中。穏やかな暮らし。
   ③夫婦で仲良く過ごすこと。
   ④称賛。成功。
   ⑤自分の人生や命を懸けたいと思えることをみつけること。などなど。
 さまざまな答えがあり、マズローの五段欲求にいずれ段階においても、幸福を実現できます。 
 要するに、幸福を感じるためには、外部の条件より性格や価値観など内面の条件方が大事です。楽観的な人なら、欲求を満たされなくても、幸福と思う人がいます。
2共感の考え
  「人間とは共同体に埋め込まれた存在である。」人間とは環境に影響されつつ成長していくものです。
   人間は社会性を持ちます。社会契約論的互恵関係だけでは人の判断を決められません。
   幸福は個人のものですか?→アダムスミスの同感原理。
   生物学からの理論支持→ミラーニューロンの存在により、高等動物は他者の意図の理解や共感や心の論理など様々複雑な行為ができます。
3ソーシャル・キャピタル
 社会関係資本ソーシャル・キャピタル)の定義:社会単位を構成する個人や家庭間の社会的な交流、善意、仲間意識。同情など」といいます。→共感
 ソーシャル・キャピタルの重要性:ソーシャル・キャピタルは健康に影響を与えます。健康は幸福感に相関関係を持ちます。→幸福実現にソーシャル・キャピタルの不可欠。
 ソーシャル・キャピタルと医療の関係:ソーシャル・キャピタルの高いコミュニティーでは医師の負担を軽減することができます。→、人的コストの節約。
4時間の差
 時間の分類①公共の時間(時計の時間)②主観の時間(心の時間)
 公共の時間と主観の時間は一致していますか。公共の時間は人為に定められたものであり、速さは一様で均質です。しかし、主観の時間では、人や状況によって異なります。
 時間を巡る問題
  公共の時間と主観の時間の摩擦による「時間の無さ」の問題。
  各主観の時間の不一致による同じスペースで長時間作業する難しさ。
 そのため、今の生活スタイルを変えるべきです。緩和的な時間政策→企業の在り方、学校の在り方。
  根源は、競争主義である。    
 競争主義から抜け出すための努力。
  ローカルの役割分担→地産地消。
  情報の共有化の進み。
  時間消費のローカル化。
5生命の見方
自然科学の見方:自然の本態とその中の法則を探求することです。→客観的な見方。
科学の限界:再現可能の現象に対象します。→偶然な現象は対象外。しかし、われわれにとって偶然なんですが、自然にとって必然性があるかもしれません。われわれは、一部しか観察できないため、誤差があります。例えば、地震の測定。
したがって、新しい視点の必要がある。→哲学的思考+方向性の変換(科学と日常性のバランス)。 
 社会構成主義の見方:社会的慣行、社会構造と関連しながら社会規範などを通して現実と事象はひとに内在化する。
  ナラティブ:ストーリー性を求める習慣。→精神医療分野への関連。

(記:庄朝浩)

6/11 社会構想チーム発表続きと「イメージの心理学」

6月11日のゼミ報告です。

 今回は、前半に社会構想チームで前回発表しきれなかったものの発表をしました。

 <義務的な繋がりが生じる「家庭」「学校」「職場」に焦点を当てて、ストレスがどこに生まれるのか、またその問題性を探る>

 増加する若年層の自殺率、高校生の自己無力感、新卒者の離職率、日本人の人間関係観から現状を探った上で、「感情型」の教育による日本人の消極性、スクールカーストによる自尊心の低下、核家族化が「子育て」を生きがいの一つに促したために起こった「家庭」と「学校」の同一化現象、生産年齢別に抱くストレスの違いを問題視しました。

 そして、

・三世代同居が減少し、都市化と核家族化が進んだことによって、子どもは地域の人や、祖父母の価値観を与えられることなく、両親だけの価値観を一身に浴びるために、不和が生じた場合、逃げ場をなくした子供がうつに向ってしまうのでないか

 ・核家族化によって育児の責任が親の身にのしかかるため、子どもの「失敗」が親の「失敗」に直結してしまうので、親は、子どもが直面する障害を取り除き、理想の子育てをしようとする「カーリングアレント」になる。それによって、「対象喪失」をできなくなった子どもは危機を乗り越える経験をしないので、壁にぶつかると立ち直れないのではないか

 という仮説を立てた上で、人間的セーフティーネットが存在しないことを指摘し、「ウィーク・タイズ」の重要性と実感的に自分にできることから個人としての希望モデルを提示する必要があるということを述べました。

 

後半は河合隼雄「イメージの心理学」の、

1)印象に残った点

2)主張に対する賛否

3)考え方を応用した提案(総合政策)

について議論を行いました。

 1)科学的言語は自と他をする→関係の喪失へ

  →果たして本当なのか?科学者のコミュニティはどうなのか。

  面倒ことを避けて生きると個性がなくなる

  →個性と創造性のつながりは本当にあるだろうか。

  死と再生の経験が必要

  夢、無意識は現実ではできないこと

  →無意識で生きることができるのならば、無意識下の元型を基盤とした社会は作れないか、相互理解を人類全体の元型に見出すことができるのではないか。

  個人を追求すると普遍的なものにつながるのか

  天才といわれる人は凄まじいエネルギー消費に耐える人=人間進化につながる?

  心理学は自然科学ではないのでは?

  人間の存在全体の回復運動として夢でバランスを取っているのではないか。

  アニミズム・・・経験が神として扱われる

 2)普遍的無意識はどこから来るのか→動物的な部分、これは人間だけ?

  →そもそも普遍的無意識とは?人が集まって1人の人間として意識を持てるか?

  科学技術で内面領域をどこまで示せるのか

  個性は必要か→相対主義の影響?

  個性とは?どこからが個性か?

  個性化の過程の人は自我が本当に確立しているのか?

  「光」とは何か、「光」が見えない人は認識できるのか?

  →人工的臨死体験が必要か

  「身体的エネルギー」と「心的エネルギー」は切り離せるのか?

  →体、心の最適バランスがあるのでは

  夢とイメージは関係ないのでは

  昔話は文化差を示す←逆に文化摩擦を生むこともあるか

3)自と他を切断しない言語なら・・・

  →身体的言語、共通の言語

  心身的エネルギーの回復のために時間政策→余裕のある生活、労働時間を減らす、拘束時間を減らすなど

  内面に着目した能力に焦点を当てる→人間が存在する意味を探る

  深層心理学の個は異なるものというとらえ方を活かしながら個人間の妥協点を探る

  対象喪失で心を鍛えてエネルギー消費に耐えよう

  →子どものうちからディベートをしよう!

  東洋医学→気に焦点を当てる

  多様性のイメージを重視する教育(外来の神話や文化を学ぶ)

6/3 社会構想チーム発表

ものすごく遅くなって申し訳ありません…。6/3のゼミの報告をしたいと思います。

グループ発表3回目ということで、今回は社会構想チームが「理想のコミュニティの在り方を視野に入れながら、現代社会について望ましい形態を検討する」ということをメインテーマとして発表を行ってくれました。

まず、共通認識として、人との関わりは人間にとって必要であるとしたうえで、他者との望ましい関わり方を考察する、という流れを提示しました。そして、チーム全員が「タテ社会の人間関係(中根千枝著、1967年)」を読み、問題点を探りました。

「タテ社会の人間関係」によると、

「一定の個人からなる社会集団の構成の条件は
・『資格』(社会的個人の一定の属性)の共通性
・『場』(一定の枠によって、一定の個人が集団を構成している場合の共有)
に分けられる」

として、日本人はこの「場」によって縛られ、枠による圧力、ひいては窮屈さを感じてしまうとしました。

これからなるコミュニティの問題点に対して、各自で解決策を探っていく形で発表が進みました。以下、各発表の簡単なまとめと考察を行います。

 

1.人間と空間・時間

なぜ交流に着目するのかを自分の体験を理由にしたうえで、家庭、自分の属さなくてはいけない組織、そしてサードプレイスが必要であると述べました。

また、他者との交流が幸福感に結びつく一方で、ストレス、孤独感の原因になっていること、学校やそれ以外の交流の現状についても言及し、この現状に当てはまる「無言社会」というモデルについて考察しました。

「無言社会」には「場」の意識が残っていること、信頼の欠如や周りからの同調圧力による窮屈さにも触れました。

今後どうするべきかという解決策に向けては、制度的補完性の考え方に基づき、時間・空間・人間への総合的なアプローチをすべきであること、「無言社会」の中でのサードプレイスの重要性、またサードプレイスとしての商店街の再生を考え。結論としました。

 

2.集団的葛藤の緩和

人が集団をつくる理由として、古来よりの集団行動をあげ、また、権威主義的パーソナリティによって不安を解消しようとする傾向があることを述べました。

次に、現状の認識で、集団においての行動とメリットについて言及しました。集団の枠意識、リーダーと従う人の快楽をメリットとしてあげました。また、集団葛藤の要因として、ステレオタイプについて触れ、社会をとらえやすくするために集団のレッテル張りをすることや、集団内での圧力、集団の統一意識などから仲間外れのメカニズムを考えました。

こうした問題の解決策として、自集団の客観視、個人を重視すること、集団規範の拡大などをあげました。

 

3.ケア的側面から生きづらさの解消方法を探る

マイノリティの生きづらさの原因を、差別する側、される側のケア的側面から解消する方法を探りました。

現状について、差別される側の内面問題である社会的知覚、相手をどう見るかの問題である対人的認知に言及し、集団から個への圧力を問題視しました。

これらをどうするべきかについて、当事者の自覚を持つための当事者研究を行い、自分と相手の適切な距離をとること、自己評価の改善を行うことを提案しました。また、当事者研究をコミュニティスペースに持ち込むこと、個人の改善による対人相互作用の円滑化が良いのではと結論づけました。

 

本当はこの後4人目大野くんの発表が続くのですが、時間切れによりここでいったん終了に…。来週に持ち越しになりました。

 

<まとめ>

コミュニティの望ましいあり方について、それぞれ異なる視点から論じられました。その根本的な問題は、前述した「場」にあるというのが共通した認識でしたが、「タテ社会の人間関係」が表された当時から今まで、人間関係の構造に変わっていない部分が問題になっているのが興味深いと感じました。また、いわゆるスクールカースト制を感じたことはあるかという問いに、ゼミのメンバーほぼ全員が感じたことがあると答えたのも印象に残りました。子どものうちからそういったコミュニティの圧力を感じていることが、現在言われがちな「コミュニティ力の低下」につながっているのかな、とも思いました。

広井先生もおっしゃったように、非常に密度の高い充実した発表と議論であり、コミュニティが居心地のいい場所になるには、総合的、多角的な視点から考えていかなくてはならないと感じた発表でした。

次回はテキスト回で、「イメージの心理学(河合隼雄・1991)」を読みます。

長くなりましたが、お読みいただきありがとうございます。最後にもう一度、更新が遅れて本当にすみませんでした…。

 

(記:鈴木)

5/28「都市革命」「コンパクトなまちづくり」

こんばんは!夜も次第に蒸し暑くなってきましたね。扇風機を買おうか迷っている今日この頃です。佐々木です。

5/28(木)のゼミ報告をさせて頂きます!

今回のゼミでは、

黒川紀章「都市革命──公有から共有へ」(中央公論新社、2007)

・財団法人都市計画協会「コンパクトなまちづくり──改正まちづくり三法による都市構造改革」(ぎょうせい、2007)

という二冊の参考文献を取り上げました。

一冊目は現代の世界・社会・価値観等の変化が論じられ、それに対する都市問題やまちづくりの面からのアプローチがなされた内容となっています。二冊目は、まちづくり三法の改革の背景や効果を中心に、様々な地域の事例を絡めながら解説されています。

 

この二冊を全員が事前に読んだ上で、

・印象に残った点

・著者への賛成意見・反対意見・疑問点

・総合政策的観点からのアプローチ

という三点について、グループ及び全体でディスカッションが行われました。

 また今回は、ニューヨークに一年弱留学していたゼミ生の一人が先週帰国し、初めて本ゼミに参加した会でもありました。お土産話ついでに、アメリカの都市の様子等も聞くことができ、とても有意義な時間となりました。

議論した内容のうち特に盛り上がったもの、深く議論できた内容について以下に抜粋します。

○情緒安定機構(コミュニティ)

・既存の中間領域(情緒安定機構)はあまり機能しているか?

…機能の実感のある中間領域例として、銭湯、立ち飲み屋、スポーツバー、ファンクラブ、喫煙所etc.

・都市は一定の目的をもとに似たような人々(ex.インテリ層)が集まる場所。そこで都市主導で人工的につくられる中間領域は均質化し、中間領域となりえないのでは。

・居場所論

…図書館、公園(!)が居場所調査で上位。家、学校・会社以外の居場所の無さ。退職間もない団塊世代の働ける公共施設創設案など。

・どうして路地が大切か。広場ではいけないのか。

…国民性の問題も。広場でかかわりを求めるには主体性必要。日本人は苦手。路地はその地理・立地条件から、自然発生的に関わりが生じやすいのでは。

・現代のコミュニティをめぐって

 …家庭・学校(職場)の関係性が満たされているとしたら中間領域は不要か?

 …学校や企業は私利・競争が目的。その目的のもと集まった人々が良い関係性を築けなくて当たり前。中間領域の前に、家庭、学校など基盤となるコミュニティの在り方を考えては。

 …仮想空間(インターネット上のつながり、ヴァーチャルな世界)は情緒安定機構の機能を担えるか?

 …小学校~高校、あるいは就職後のコミュニティの少なくなる構造上の問題

コンパクトシティ、都市の在り方

・プライバシーとコミュニケーションの対立。集約型都市はプライバシー保護と両立できるのか?

 …緩いつながりの希求。

・三法改正は機能しているか?全体に十分な効果上げたとは言えないのでは。

・中央を機械化(ex.エヴァンゲリオンのマギシステム)、周辺部をコンパクトシティとして自治させては?

 …2045年問題との関わり

コンパクトシティの弱点(残された地域の問題)

・コンパクトヴィレッジの提案

 …市街地ばかりに集約すると更に過疎の深刻化。また農村部から追い出され幸せか?農業と両立し田舎でも集約できれば、抵抗も少ない。集約は大都市や市街地に限らない。

個人の感想としては、「都市革命」を発端にしたコミュニティに関する問題提起に興味を持ちました。

日本人の国民性とコミュニティの関係の話、もっともですよね。プライバシーを重んじ、地域内での交流も面倒に感じてしまう日本人だからこそ、中間領域を皆が持つためには、ハード面の施設や団体を作るだけでなく、趣旨、入りやすさ、話しかけやすさといったソフト面の議論もしていかなくてはならないですね。それにしても、地域コミュニティから目的重視の時間コミュニティにほぼ移行がもう済んだものかと思いきや、銭湯や喫煙所という場所で学生でも未だに交流が生まれているという声には私は驚きました。結局のところ、こういった中間領域はどの程度精神的に効果があるのでしょうか。時間コミュニティか地域コミュニティかでも影響は異なりそうですね。統計調査など探してみたいところです。

仮想空間がコミュニティになりうるかという話も面白いですね。ネット上のつながりはface-to-faceのつながりには及ばないとよく言われる一方で、対人関係がストレスになるためにネット上の中間領域を選ぶ人もいることですし。「人は見た目が9割とも言われる面もあり、逆にネット上の方が印象や偏見が取り払われた本当の自分で勝負できるのでは」という指摘もゼミ生からあり、私はかなりはっとさせられました。このあたりは精神的には、そして長期的にはどうするのが望ましいのか。既に議論されているのか調べてみたいところです。

ついでに…。仮想空間の話から私は「セカンドライフ」というゲームのことを思い出しました。現実世界にそれはそれは忠実なヴァーチャル空間で、チャット、買い物、ビジネスなどをしながら生活を送り、ゲーム内の仮想通貨で利益が生まれれば現実に課金できるのだとか。これが爆発的にヒットすれば、仮想空間のコミュニティのみで生きていくこともできるかもしれないと思うと恐ろしいものです。恐ろしい反面、万人にそれがいけない理由について科学的根拠を以て説明しなさい、と言われれば答えに窮してしまいそうな。仮想空間の問題は奥が深そうです。

現状では中間領域が“逃げ場”になってしまうという話も出ましたが、そう認識せざるを得ない事が悲しいなあと感じます。家族・学校・職場が、情緒安定機構として、また各人の個性を生かせる場所として機能した上で、プラスアルファの場所として中間領域も選び取れるといいのですが。そこまで遡って変えていくとなると、社会思想や経済構造といった話に立ち戻るのでしょうか。時間と心を最大限まで削って競争しなくても、大人になれて生活できる社会になるといいのですが。

来週はグループ発表の3団体目です!ゼミ生にweb上でアンケートをとるなど、かなり精力的に準備をしているようです。期待が高まります!!(記:佐々木)

5/21②国際比較チーム発表

こんにちは。更新が遅くなってしまい恐縮ですが先週(5/21)のゼミの報告をしたいと思います。

 

21日は先週に続きチームごとの発表で、国際比較チームの発表でした。

内容は①「LRTまちづくり」②「アメリカと車社会」③「まちづくりの国際比較」④「北京と東京の地下鉄比較」についてでした。

 

以下簡単なまとめと考察を書きます。

①「LRTまちづくり

LRTとは「路面電車を基礎としつつ、従来までの機能・役割に加え、都市の再活性化や環境負荷の軽減も目的とする。」というものです。

例としてはフランスのパリ、スペインのマドリッドなどがあります。規模としては20万人〜100万人規模の都市に作られることが多いようです。

 

なぜバスではダメなのか?と私は疑問に持ちました。

その返答としては

  • 町を歩行者中心の町にする
  • 車などを移動手段にすると、町のつながりが希薄になってしまう。
  • 高齢化時代にあっているのではないか

といった意見がでました。

これらの意見は一貫してコンパクトシティの構想とリンクしているなと感じ、面白いと思いました。

 余談ですが、広島に旅行に行ったときに路面電車に乗ったのですが、バスとは違うよさ、広井先生が言うような弱いつながり、街全体の一体感といったようなものを感じたことが印象に残っています。

②「アメリカと車社会」

日本のインフラ整備はアメリカを模倣したはずなのに、なぜ鉄道がはったつしたのか?逆に言うと、なぜアメリカは車社会なのか?

といった疑問を発表者は強く持っていたようでした。

結論から言うと、国土の大きさ、人口密度の違いからくる地理的要因、GMなどの存在による政治的要因もあるようでした。

アメリカの交通機関の利用量が鉄道が0.7%、高速道路が88.7%、飛行機が12.1%という数字に驚きました。

 

まちづくりの国際比較」

ドイツと日本のまちづくりの違いを、歴史的背景などから説明してくれました。

日本の城壁と西洋の城壁の意味のちがいや、日本と西洋の社会に対する認識の違いなど様々な視点から日本とドイツの違いをしめしてくれました。

 

④「北京と東京の地下鉄比較」

北京と東京の地下鉄との違いを歴史的背景、経済的背景から説明し、その

上で課題点、問題点を提起してくれました。

先進国と先進国との比較ではなく、発展途上にある国との比較という視点が非常に有意義なものに感じました。

 

〜考察〜

ドイツの日本の城壁の役割の違い、そのなかでも、「社会」と「世間」というキーワードが印象に残りました。ドイツでは共同体を守るために都市の外縁に「城壁」を設置しました。その内側に、ある意味閉じた社会が形成されてきました。

一方日本では、城壁は共同体を守るためのものではなく、城を守るものでした。つまり、日本ではどこまでが共同体の境界であるかという明確な基準がなかったのです。

阿部謹也さんの言葉に“日本の「個人」は「世間」の中に生きる個人であって、西洋的な「個人」など日本には存在しないのです。独立した「個人」が構成する「社会」なんてものは日本にはないんです”という言葉がありますが、平たく言うと、日本には社会はなく、ただ世間があるだけだ。こういうことになります。とてもハッとさせられる言葉だと思います

社会というものをどの範囲で捉えるかということを考えるのは、その先にある社会のあり方や、個人のあり方を考える上でもとても重要なことだと感じました。

(記:菊池)